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銭湯が混浴できたのは遠い昔の時代劇の話だと思われがちだが、実は60年程前までは混浴ができる銭湯は、日本の一部の地方ではまだ続いていたのである五木寛之原作の「青春の門」が1981(昭和56)年に菅原文太主演で映画化されているが、舞台は筑豊炭田(福岡県田川市)で時代は昭和初期\nこの映画の中では男女が混浴するシーンがある\n混浴は極一部の地方ではあるが、確実に昭和の時代まで引き継がれていたのであるそこで今回は、「銭湯」の歴史や特徴・文化的意義まで紹介できればと思います1、銭湯の歴史\n1)日本の銭湯の起源\n日本で銭湯が始まったのは、仏教伝来(538年)まで遡る\n当時の仏僧が、「身を清めるため」と「病気の防止」を目的に寺院に「浴堂」を設置したことに始まる\nまた、「病を退けて福を招くもの」として入浴を奨励し、貧しい人々や病人を対象とした施浴(せよく)という彼らの修行の一環として行われていた\n当時の入浴施設は今と違い、蒸し風呂(湿式のサウナ)に近いものだった当時の施浴の様子についいては光明子、後の光明皇后(701(天宝元)年~760年7月23日(天平宝字4年6月7日)の「千人風呂伝説」が有名である2)光明皇后の千人風呂伝説\n光明皇后は藤原不比等(中臣鎌足の次男。659年~720年9月9日(養老20年6月7日)の娘(三女)として産まれ、729(天平元)年8月10日、皇族以外で初の皇后になった御方であるが、当時としては珍しく慈善事業に熱心な方としても有名であった\n当時は天然痘が猛威を振るい、多くの死人が出て、孤児が世に溢れる世の中でした\nそこで皇后は、翌730(天平2)年、貧窮者・病人・孤児を救済するための福祉施設である「悲田院」「施薬院」を設置し、\nその後、「人々のために孝徳風呂(貧しい人々が無料で入れる風呂)を作り、千人の体を洗いなさい」\nという仏のお告げを受け、現在の奈良市に法華寺を建立し、寺内に浴室(からふろ)を作り、身分を問わず、999人の体を洗い、垢を落とし続けました\nそして千人目にやってきたのは・・・\n体中が病気で膿んだみすぼらしい老人でした\nこれはさすがの皇后もドン引きしたのですが、\n「この体の膿を吸い取って下さる方がいたら、この病気は治ると医者が言っておられました。皇后さまに御すがりしようとやってまいりました」という老人に皇后はたじろぎながらも、何事も仏の思し召しと心に決め、\n「分かりました。病気を治せるなら喜んでやりましょう」\nと、老人の手を取り、彼の膿を口で吸い取ったのです\nすると、老人の体から金色の光が放たれ、仏の姿となり、天に昇って行ったということです\n老人の正体は、「阿閦 (あしゅく)如来」だと言われています2,江戸時代の銭湯\n1)江戸時代の始まり\n1590(天正18)年2月、関白豊臣秀吉の天下統一事業の総仕上げとして「小田原征伐」が行われ、\n同年7月、小田原城攻略に成功すると(小田原の後北条氏滅亡)、徳川家康は豊臣秀吉に、それまでの住み慣れた駿河国から未開の江戸に移封(国替え)を命ぜられた2)江戸市中\n「家康の江戸城入り」の後、家康が江戸幕府(1603(慶長8)年)を開くまでの13年で、それまでの草深なだけの未開の地であった江戸は日本最大の都市へと変貌した\nだが、それでも道は未舗装なため、昼夜を問わず風による砂埃が舞い、その風で家事も起きやすい土地でもあった\nそのため、幕府は江戸城・大名屋敷・吉原遊郭以外の家屋で家風呂の設置を禁じた\n江戸では関ヶ原の戦い(1600(慶長5)年)の翌年の1601(慶長6)年から大政奉還(1867(慶応3)年)するまでの267年間に49件の大火に見舞われ、それ以外の火事を含めれば、実に1798件を数えるほど火事が多い土地だった3)江戸の銭湯\n前述の理由から、幕府は相当に富裕な町屋や豪商、大名以外の武家屋敷にも家風呂を持つことを禁じた\nそのため、江戸市中には多くの銭湯が作られた\n当時の銭湯は、奈良時代から続く、「蒸気を炊いた部屋に入って汗を流す」という蒸し風呂タイプのものであったが、後に現代のような、「沸かした湯を浴槽に入れ、その湯で体を洗い、浴槽の湯に浸かる」ものが増えていった\n因みに、蒸し風呂タイプの銭湯を「風呂屋」\n後者のものを「湯屋」と呼び、区別していた4)混浴禁止令\n1787(天明7)年、8代将軍徳川吉宗の孫である松平越中守定信が老中に就任\n寛政の改革始まる\n1791(寛政3)年、寛政の改革の一環として「混浴禁止令」が発布\nしかし、男女別にすることで銭湯の改修が必要になるため(幕府は改修にかかる費用は一切出さなかった)、銭湯経営者にとっては経営を圧迫する要因にしかならず、利用者にとっても、「浴場が狭くなる(だけ)」と評判は芳しくなかった\nだが、2年後の1793(寛政5)年、定信が失脚すると混浴禁止令も事実上解かれる形になり、銭湯は再び混浴が再開された1841(天保12)年、老中水野忠邦による「天保の改革」により再び混浴禁止令が発令されます\nですが、天保の改革は僅か2年で頓挫し、\n1843(天保14)年、水野忠邦失脚後、銭湯は再び混浴を再開することになります5)黒船来航\n1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、米海軍東インド艦隊代将マシュー・カルブレイス・ペリー率いる幹線4隻が江戸湾入り口の浦賀に侵入\n半年後の翌1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、ペリー再び浦賀に出現\n同年3月31日(同3月3日)、日米和親条約締結\nこれにより215年続いた鎖国政策が終わり、 1867(慶応3)年の大政奉還(江戸幕府終焉)まで日本は突き進むことになる\nこの間僅か14年\nだが、ペリーの矛先は幕府だけに向けられたものではなかった3、混浴の終わりの始まり\n江戸時代の間、幕府は二度も混浴禁止令を出しましたが、混浴禁止は定着しませんでした\nそんな事情を変えたのが、意外にもペリーでしたペリーは二度目の来日の際、約4ケ月間程日本に滞在していました\nその間の出来事を、「ぺルリ提督日本遠征記」という書物に記しましたが、その内容に中に、\n「町内には男女混浴の共同浴場があり男女とも赤裸々な裸体をなんとも思わずお互いに入り乱れて混浴している。その有様を見ていると日本人は道徳心に優れているのにその道徳心に疑いを感ぜざるを得ない 」\nと、銭湯についてだけでなく、日本人に対する侮辱とも取れる文言になっています\n当時の欧米では、ニューヨークはあるのに、入浴の習慣はなく、乾いた布で体を拭いたり、清潔な下着を身に着ける(ことで清潔を保っていた)ことから、「裸で湯に浸かるなんてナンセンス!」という感覚\nそれが、「男女が裸で一緒にいる」ことが衝撃的に映ったのでしょう\nが、日本人からしてみれば入浴は宗教(仏教)の教えから始まる古来からの習慣であり伝統であったし、\n夏場は男はふんどし一丁、女は着物をゆるく着て外を歩き、庭先で行水するのは当たり前の生活だったのですいつも欧米人は自分たちの価値観を押し付けるので辟易します4、日本が変わるのはいつも外圧\nペリーや来日した外国人たちからの混浴銭湯に対する批判を受けた明治新政府は、\n「日本の近代化の近道は欧米の価値観を受け入れること」だとして、銭湯の混浴禁止以外にもそれまでの庶民の生活習慣に及ぶところまで厳しく取り締まりました明治中期には東京の銭湯から混浴は姿を消しました\nでもそれは東京府(当時の東京)内での話\n明治以降も東京以外の都市や地方では銭湯の混浴は続きましたが、前回(1964年)の東京オリンピック前には混浴の銭湯は日本から消滅したのです\nこれも政府の外国への気兼ねからくる徹底した弾圧によるものでした\n現在、混浴を続けているのは一部の温泉を残すのみとなっています外圧と言えば、「ソープランド改名問題」があります\n以前は、「トルコ風呂」として営業していましたが、ヌスレット・サンジャクリという一人のトルコ人留学生が意義を申し立てたのが始まりでした\n彼がトルコ共和国大使館に働きかけ、トルコ本国に日本政府への圧力(抗議)を加えたのです\nそして彼の支援者の一人が、現在の東京都知事小池百合子です\n1990年代前半(平成初期)の頃、大阪のソープランドが警察により徹底的な取り締まりを受けて絶滅したが、この背景にあるのは、関西空港開港と花博(国際花と緑の博覧会)開催でした